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佐藤一斎と言志四録●一斎翁と略歴 安永元年(一七七二)十月二十日 江戸浜町の美濃岩村(巌邑)藩邸で生まれる。 名・坦(たん)、幼名・幾久蔵、初名・信行、字・大道・通称・捨蔵、号・一斎、別に愛日楼、老吾軒又は江都と称した。 一斎は幼少より経書を学び、書をよくし、才童のほまれ高く、十七歳で士籍に上がり、藩主松平乗薀(のりもり)の近習となったが、それ以前から乗薀の三男で一斎の父が烏帽子親となった後の林述斎(一斎より四歳年長)と親交があり、ともに学問にも励む。 林家は京都新町四条上ルに住居した儒学者、林羅山が開幕後の徳川家康の求めで江戸に移り、私学塾を開き出仕し、幕府の保護を受ける。 林述斎はその学頭を勤めるが天保十二年(一八四一)七月死去のため同年十一月一斎が学頭となる。時に七十歳、弟子三千人ともいわれ全国に多くの人材を送り出す。 安政六年(一八五九)八八歳、九月二十四日、昌平黌官舎にて没す。墓所は浄土宗深広寺(現・東京麻布六本木交差点そば)にある。 昌平黌は現在東京JR中央線のお茶の水駅そばの森の中にその一部が孔子廟とともに静かな空間として残っている。 象山の弟子には「二トラ」といわれた吉田寅次郎(松蔭・長州藩士で萩の松下村塾で有名)と小林虎三郎(長岡藩士・米百俵物語で知られる)がいた。又、方谷の弟子には小林虎三郎と同じ長岡藩士で幕末維新にかけて活躍した同藩家老の河井継之助がいた。 松蔭はあまりに有名で一般に周知されているので、ここでは小林虎三郎にふれておきたい。高支持率で成立した小泉内閣、小泉純一郎首相が国会衆議院本会議における新任演説で「米百俵」の話を引用した。その人物が虎三郎であり、このことで広くこの隠れた先覚者を知った人も多いであろう。 山田方谷は昌平黌で一斎の後継者といわれた人物であったが、帰藩を強く望み藩主板倉勝静(かつきよ)を補佐した。 意外と知られていないが、先の大戦後、敗戦国の占領下にあって、困難な状況下我国の首相として、その古武士的風貌と長い外国生活で、洗練された紳士として個性豊かに生きたことで有名な吉田茂首相その人は、幼少時横浜の吉田健三の養子となる。その後、その妻、士子(ことこ)は、一斎の三男立軒(りつけん)の娘であることから、茂の義母は一斎の孫娘であった。
●言志四録について 言志四録は四編からなり、言志録、言志後録、言志晩録、言志耋(てつ)録である。 幕末から維新にかけての英傑、西郷隆盛(南洲)は、藩主の命により流罪となった時、遠く南海の島に向かう隆盛が言志四録を持参し獄中で熟読、自ら修得した全文より一〇一条選び出し南洲手抄として残している。 平成の時代になって盛んとなった生涯学習(教育)の基本理念ともいえるこの訓は、先の国会衆議院本会議に教育改革関連三法が上程された時、その主旨説明の中で小泉純一郎首相が、この三学戒を引用したことから一層多くの人々に周知されることになった。 少にして学べば、則ち壮にして為すことあり。 人生まさに、自らのため、己が使命(天命)に生きるため一人ひとりが各々の分にそって強く自覚して生きてゆきたいものである。
●言志四録の構成内容と著述年代 第一編 言志録二四六条 文化十年(一八一三)〜文政七年(一八二四) 第二編 言志後録 二五五条 文政十一年(一八二八)〜天保八年(一八三七) 第三編 言志晩録 二九二条 天保九年(一八三八)〜嘉永三年(一八四九) 第四編 言志耋録 三四〇条 嘉永四年(一八五一)〜同六年(一八五三) 言志四録 全文、一三三条(約三五年間の著述) 文化二年(一八〇五)に林家の私塾の塾長となり、八年後文化十年より弟子への講義の傍ら、のべ四十年に渡り記述された「一斎学」のエキスといえるものである。
【参考資料】佐藤一斎言志四録手抄 彫板 名言録集 |
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