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佐藤一斎って?


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佐藤一斎と言志四録

一斎翁と略歴

 安永元年(一七七二)十月二十日 江戸浜町の美濃岩村(巌邑)藩邸で生まれる。
父佐藤文永(信由・のぶよし)・母、留(とめ)の間の次男。
この時、長男はすでに早死しており、佐藤家の嫡子となるべき立場にあった。(後ち分家して佐藤家初代となる)

 名・坦(たん)、幼名・幾久蔵、初名・信行、字・大道・通称・捨蔵、号・一斎、別に愛日楼、老吾軒又は江都と称した。
父、文永は岩村藩の家老職、母、留は下総国関宿藩の家老職蒔田助之進の五女であり、父方の祖父信全も岩村藩家老職にあった。
又曽祖父佐藤周軒は儒学者で後藤松軒の高弟、周軒が岩村藩学問所(後に知新館)の教授として出仕したのが同藩とのかかわりで周軒は後に家老となる。

 一斎は幼少より経書を学び、書をよくし、才童のほまれ高く、十七歳で士籍に上がり、藩主松平乗薀(のりもり)の近習となったが、それ以前から乗薀の三男で一斎の父が烏帽子親となった後の林述斎(一斎より四歳年長)と親交があり、ともに学問にも励む。
 二十歳で職を免ぜられ学問に精励する。
その間大阪、京都に遊学し、大阪では懐徳堂中井竹山のもとで陽明学を学び、京都では皆川淇園に学び、他に江戸では井上四明、鷹見星皐(田原藩家老でもあった、又渡辺崋山の師でもある)にも学んでいる。
又、学友である述斎が嚶鳴館の細井平洲(米沢藩主上杉鷹山の恩師として有名)のもとに学んでいるので一斎も接触をもっていたと思われる。
二十一歳で江戸に帰った後、林間順(後に林述斎の義父)の門に入る。
簡順早世にして林家に世継ぎ無く、幕府の学問所として幕命により学友述斎は林家の養子になり塾頭となる。
一斎と述斎の間柄は学友であると同時に師弟の関係となった。
その後学問一筋の生活を送る。

 林家は京都新町四条上ルに住居した儒学者、林羅山が開幕後の徳川家康の求めで江戸に移り、私学塾を開き出仕し、幕府の保護を受ける。
後に幕府の学問所となり、官学として「昌平黌」に発展し明治維新まで続く。今日の国立東京大学の前身である。

 林述斎はその学頭を勤めるが天保十二年(一八四一)七月死去のため同年十一月一斎が学頭となる。時に七十歳、弟子三千人ともいわれ全国に多くの人材を送り出す。
又幕末から維新にいたる我国の歴史的大転換期、多くの有能な人々は、一斎の教えをうけて活躍したことは歴史が物語っている。

 安政六年(一八五九)八八歳、九月二十四日、昌平黌官舎にて没す。墓所は浄土宗深広寺(現・東京麻布六本木交差点そば)にある。

 昌平黌は現在東京JR中央線のお茶の水駅そばの森の中にその一部が孔子廟とともに静かな空間として残っている。
一斎の弟子といわれる人々は全国にわたり、中でも有名な人物は、昌平黌の双璧といわれた佐久間象山(信濃国松代藩士)と山田方谷(備中国松山藩士)である。

 象山の弟子には「二トラ」といわれた吉田寅次郎(松蔭・長州藩士で萩の松下村塾で有名)と小林虎三郎(長岡藩士・米百俵物語で知られる)がいた。又、方谷の弟子には小林虎三郎と同じ長岡藩士で幕末維新にかけて活躍した同藩家老の河井継之助がいた。

 松蔭はあまりに有名で一般に周知されているので、ここでは小林虎三郎にふれておきたい。高支持率で成立した小泉内閣、小泉純一郎首相が国会衆議院本会議における新任演説で「米百俵」の話を引用した。その人物が虎三郎であり、このことで広くこの隠れた先覚者を知った人も多いであろう。
「路傍の石」等で有名な小説や戯曲を世に出した山本有三の戯曲「米百俵」がある。虎三郎は新しき時代に必要な人づくりのため藩の教育を第一義に努力した人物である。
又、同じ長岡藩で幕末家老として活躍し、中立と平和を求めて、最後は官軍との戦いで戦死した河井継之助は備中松山藩に帰藩して、藩政改革に努力し、短期間で成功させたことで有名となった山田方谷を訪ね再三の願いをこめて入門し、学んでいる。

 山田方谷は昌平黌で一斎の後継者といわれた人物であったが、帰藩を強く望み藩主板倉勝静(かつきよ)を補佐した。
藩主勝静は大政奉還当時、幕府老中筆頭の重職にあり、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜を補佐する任にあった。隠居していた方谷が困難な政治状況下で再度の出仕を求められた補佐役としての使命をはたした。又一説には大政奉還の文案は方谷によるともいわれる。

 意外と知られていないが、先の大戦後、敗戦国の占領下にあって、困難な状況下我国の首相として、その古武士的風貌と長い外国生活で、洗練された紳士として個性豊かに生きたことで有名な吉田茂首相その人は、幼少時横浜の吉田健三の養子となる。その後、その妻、士子(ことこ)は、一斎の三男立軒(りつけん)の娘であることから、茂の義母は一斎の孫娘であった。

言志四録について

 言志四録は四編からなり、言志録、言志後録、言志晩録、言志耋(てつ)録である。
全編で一一三三条の訓(おしえ)が記述されている。
人それぞれの生活、生涯にあって、心から自らを練磨し、修養につとめるべき大切な真理、道理が説かれ、昨今のように混迷する社会状況下で、自らを見失いかけて混沌とした閉塞状態にある人々にとって光をあたえ、気力をもたらす良書であると信ずる。

 幕末から維新にかけての英傑、西郷隆盛(南洲)は、藩主の命により流罪となった時、遠く南海の島に向かう隆盛が言志四録を持参し獄中で熟読、自ら修得した全文より一〇一条選び出し南洲手抄として残している。
 言志四録の中で特に知られている訓(おしえ)は言志晩録六〇条の「三学戒(かい)」である。

平成の時代になって盛んとなった生涯学習(教育)の基本理念ともいえるこの訓は、先の国会衆議院本会議に教育改革関連三法が上程された時、その主旨説明の中で小泉純一郎首相が、この三学戒を引用したことから一層多くの人々に周知されることになった。

少にして学べば、則ち壮にして為すことあり。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老にして学べば、則ち死して朽ちず。

 人生まさに、自らのため、己が使命(天命)に生きるため一人ひとりが各々の分にそって強く自覚して生きてゆきたいものである。

 

言志四録の構成内容と著述年代

第一編 言志録二四六条 文化十年(一八一三)〜文政七年(一八二四)
 将軍十一代家斉の治政
 約十一年間、一斎、四二〜五四歳

第二編 言志後録 二五五条 文政十一年(一八二八)〜天保八年(一八三七)
約十年間、一斎、五七〜六六歳

第三編 言志晩録 二九二条 天保九年(一八三八)〜嘉永三年(一八四九)
約十二年間、一斎、六七〜七八歳

第四編 言志耋録 三四〇条 嘉永四年(一八五一)〜同六年(一八五三)
約二年間、一斎、八〇〜八二歳

言志四録 全文、一三三条(約三五年間の著述)

 文化二年(一八〇五)に林家の私塾の塾長となり、八年後文化十年より弟子への講義の傍ら、のべ四十年に渡り記述された「一斎学」のエキスといえるものである。
又偉大なる先達の訓であるのみならず、一斎の人となりを知るためにも、多くの弟子、後世への影響の大きさを知るためにも我々が現在の時点にあって、この大きな歴史の転換期の中で如何にあるべきかを思案し生きるためにも必読すべき良書である。

参考資料佐藤一斎言志四録手抄 彫板 名言録集


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